どうでもいい命なんかない

人生・生活,獣医療・ペット

ホームレスと猫の命を比較

「ホームレスの命はどうでもいい」
「必要のない命は僕にとって軽い」
「生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救ってほしい」

こう発言して炎上した動画のニュースをみた。
命をこういうふうに見る人がいるんだ、ということに驚き、悲しくなった。
今日は、獣医師としての仕事と過去の体験をから、自分が命についてどう向き合い、考えているかを話したい。
動画でこれを発言した方に、批難や批判をする意図はありません。

ペットの命と向かい合って生きてきた

私は30年以上前に獣医師免許を取得し、その日からずっと臨床現場で、命を扱う仕事をしてきた。

大切に飼われている犬、猫、鳥。
治る病、治らない病、痛み。苦しみ。
ネグレクト状態で放置されたペットたち。
末期医療と看取り。
安楽死。
シェルターに保護された、里親募集のペットたち。
ノラ犬、ノラ猫、野犬、地域猫。
目も開いていない新生児。
野生動物、野鳥。

私の場合、日本とアメリカの両方の国で仕事をしてきた。

それぞれのペットが、それぞれの異なる環境で生き、異なる文化で、異なる人に飼われ、異なる考えの人の運命に左右されながら生きているのを、現場で見てきた。

そうして私が確信しているのは、ただ1つ。

どんな命もすべて、美しく、尊く、大切であるということ。
命を比べることもできなければ、優劣なんかない。
無駄に生まれてくる命なんかないし、意味のなかった命もない。

それはヒトの命も同じこと。
ホームレスだから、日本人だから、女性だから、愛護団体だから、政治家だから、仏教だから、高齢だから、外国人だから、シングルマザーだから、犯罪者だから、死刑確定囚人だから、貧困者だから、コロナに感染しているから、障がい者だから、金メダリストだから、有名人だから、いじめをした人だから。。。。

その人がどんな人か、どこで生まれてどこで育ち、今どのような生活をしているか、どんな思想を持っているか、何を考えているかで、何をしたかで、命に優劣はつけるのは不公平だ。

命は、生きているすべての人にとって、平等の価値があると私は信じている。

それが、私の偽りのない本心である。

命は優しく礼儀ただしい

なぜ、私がこんな、歯のうくような平等論を信じているのか。

それは、私の過去の経験と関係していると思う。
臨床獣医師としての半生を振り返り、私はいつも、自分の目の前の命を、どんな時でも決しておろそかにしないということを、必ず守ってきた。

それがすべてよかったとは思っていない。

結果、自分は決して、いい妻、いい母、いい女性ではなかった。

私は、どんな時も、どんな場合も、決して命から目をそらすことなく、正面から命に向かい合ってきた。それだけは自信を持って言える。

人間だから、体調の悪い日も、機嫌の悪い時もある。

でもどんな日も、診察室の命、手術台の上の命に対して、絶対に手を抜くことはしなかった。

世間がお盆の時、お正月の時、サンクスギビングの時、独立記念日の時。
楽しく遊ぶ人を横目に、しなくてはならない診療や手術をもくもくとこなしてきた。
あの日、子供の学芸会の舞台発表は、急患診察のために、終わった後に到着した。
あの日、運動会の観戦の最中に抜け出して、病院にかけつけて急患の対応をした。
あの日、子どもの誕生日のケーキを、閉店時間に2分遅れて、買って帰れなかった。

そんな長い臨床生活の中で、私は動物から、命についてたくさん学んだ。
数えきれないほどの涙、感動、命との出会いと別れを繰り返し、命の尊さを心底学んだ。

命を軽くしているのは人間のほう

人は弱い生き物なので、ある人を攻撃したり、殺そうと思うことがあるだろう。
人を憎み、恨むこともあるだろう。
誹謗中傷する人。
傷つける人。

私自身も、今までの人生の中で、他人を憎んだり恨んだり、殺したいと思ったことだって当然あった。
あるいは、他人ではなく自分の命を消したいと思ったこともあった。

「生意気な女だ!」と叫びながら、思いっきり顔を殴られ、病院の床に叩きつけられ、見上げた院長の顔を見た時、私は本気で、この人を殺したいと思った。

「性暴力」という言葉さえも存在しなかったあの頃、なぜ力だけで、男の思い通りにされなくてはならなかったのか、悔しさと怒りと恥ずかしさで、あの男が永久に消えればよいと心底思った。

どちらも遠い昔。渡米を決心する前のことだ。

「Jap」と呼ばれて、あざ笑いされた時のくやしさ。

大切に集めていたアクセサリー宝石を、全部泥棒に盗まれたあの日の喪失感。

わが子を流産した時。

でもそんな悲しみも、憎しみも、悔しさも、時とともに変わった。
忘れ去ることはなくても、それがいつか、自分やその人へ同情になり、あの人はかわいそうな人だったと哀れむ気持ちにった。

生きているって、すごいことだと思う。
生命力ってすごい、と改めて思う。
肉体は傷ついても、傷は癒えて治る。
心の傷は、もっともっと時間がかかるけど、やはり時とともに少しずつ癒える。

どんな悪人も、酷いことをした人も、被害者も加害者も、それぞれが尊い命を持ち主。
その人と自分との関わりは、人生の中ではほんの1点にすぎない。
でも関わった以上は何かの縁。
動物の命と同じように、どんな人間の命も無駄な命はない。
だから、決して、殺してはいけない。
だから決して、人を傷つけてはいけない。体も。心も。

私が命を抱いた時

私の人生の中で、最も重い命の尊さを実感したのは、今から20年前の5月のこと。

サンタモニカの病院のベッドの上で、麻酔から目覚めた時だった。
ナースが it’s all done 、もう終わりましたよ、とそっと声をかけてきた。
私は言った。

「赤ちゃんに会わせてください。赤ちゃんを抱きたい」。

私は妊娠7か月だった。

男の子だと言われていた。
私はこっそりと、彼に自分の初恋の人の名前をつけて、いつもMちゃんと呼んでいた。
私は過去に何度も、妊娠初期に流産をしていたが、今回は妊娠7カ月まで順調だった。
今回はちゃんと生まれてくると期待していた。
7カ月間、いつも自分のお腹に話しかけ、なるべく楽しいことを考えて、毎日毎日、Mちゃんとの会話をひそかに楽しんだ。
妊娠5カ月くらいからは、Mちゃんは元気に毎日私のお腹を蹴り、私の会話に応えてくれた。
数日前にMちゃんに元気がないことに気づき、検査をしたら、お腹の中で静かに死んでいた。
もう、Mちゃんと呼んでも返事がなかった。
お腹も蹴ってもらえなかった。
そして私は、麻酔下で、動かなくなった息子を出産した。

夫は、会うのが耐えられないと言って出ていったので、病室は私1人だった。
ナースが、白いタオルに包んだ息子を大切そうに抱いて、私に手渡してくれた。

その瞬間、その一瞬を、私は一生忘れることはない。
小さな小さな赤ちゃんだけど、ずっしりと重さがあった。
彼が生きていたという命の重さだった。
目を閉じた息子は、はっとするほど美しく、清く、かわいらしく、神聖な顔をしていた。
目も鼻も口も、巧妙にちゃんと作られ、触ると肌はぬくもりがあって暖かかった。
自分に少し似ていた。
昔、両親が撮影してくれた、自分の子供の時の写真に、よく似ていた。

Mちゃんとは、7カ月も一緒で、数日前まで会話を楽しんで、心が通じ合っていた仲。
初対面であり、初対面じゃなかった。
そして、初対面であり、最後の対面でもあった。

15分間、私はMちゃんの顔を黙って見つめた。
悲しみでも、辛さもなかった。
自然と涙がこぼれた。
命の尊さに想いをよせ、神秘的な幸せと、感謝と、感動の涙だった。
彼はこの世にやってきて、7カ月間という間、私に幸せな時を与えてくれて、こんなに美しい顔で私にちゃんとお礼を言って、去っていってくれたのだ。
この子は、どんな思いで、私から去って1人でお空に行くのだろうか。
私はただただ、彼の命に感謝した。

それから4年後。
私は今度、娘を妊娠した。
ある日、犬の去勢をしている時に早期破水し、そのままサンタモニカの、同じ病院に入院することになった。〈去勢はちゃんと終わらせました〉

2週間ほどベッドの上でがんばったが、胎児の危険のため、帝王切開で早期出産することになった。
未熟児ながら元気な産声をあげて、この世にやってきた娘は、ちょうど妊娠7か月齢だった。

Mちゃんが逝ったのと同じ月齢で、やはり同じ、5月だった。

Mちゃんは4年間、待っていてくれたのだ。

Mちゃんは娘に乗り換えて、あの時生まれてこられなかった命を引き継いで、再び生まれてくれたのだと思った。
私に会うために。
私を安心させるために。

そして、こんな命の素敵な話は、犬にも猫にもたくさんある。
臨床獣医師だったら、誰もが経験しているはず。
毎日のように飼い主さんと笑い、涙し、命の尊さを分かち合う。それが臨床獣医師なのだ。

どうでもいい命なんかない

命について、人それぞれの考え方やとらえ方があって当然かもしれない。
ただ、命に対するリスペクトがないのは悲しく思う。

世の中はコロナで、多くの犠牲者がニュースになっている。
いつ災害や天災が起こるかもしれない。
世界中に異常な気象が起こり、戦争や内紛で迫害され、犠牲となる人がたくさんいる。
何の力も武器も知恵もない私たちには、できることは少ない。

でも私たちにできるたった一つの大切なこと。

人をいじめたり、中傷誹謗したり、他人を悪口はもうやめよう。
それは、命を尊重していないから、口から出るもの。
命をもっとリスペクトしてほしい
人の命も、自分の命も、動物の命も。